About islam
About Islam
About islam
よくある質問
はじめに
とりあえず予防線として、私は一ムスリマとしてこの問題にはこう取り組んでいます、という見解を述べたいと思っています。私はイスラム法学者ではないので、必ずしもこの回答が正しいとは言えませんが、一人のムスリマとして、出来るだけ正確に、また、ここに来てくださった方のイスラム教への偏見を取り除くことができるのなら、と思い、このトピックを作りました。
豚肉はどうして食べられないの?
汝らが食べていけないものは、死獣の肉、血、豚肉、それからアッラーではないものにささげられたもの、絞め殺された動物、打ち殺された動物、墜落死した動物、角で突き殺された動物、また、他の猛獣の喰らったものー(このうちでも)汝らが自ら手を下して最後の止めをさしたもの(まだ生命があるうちに間に合って、自分で正式に殺したもの)はよろしいーそれに、偶像崇拝の石壇で屠られたもの。また、賭矢を使って肉を分配することも許されぬ。これはまことに罪深い行いであるぞ。・・・
食卓 4節
ムスリムと言えば・・豚肉禁止。なぜでしょう。理由は見つからないんですね。実は。ヒンドゥーでは牛は聖なるもので食べちゃ駄目なんだけど、イスラムでは豚は不浄な物なので駄目なんです。
科学的には、豚肉はちゃんと加熱しないと細菌が残るから危ないって言われていますが、それが理由であるとは今の時代言えません。
小耳に挟んだところでは、ムハンマド時代、戦争に行く途中に豚を食べていた戦士が、あまりの美味しさで召集に従わなく、アッラーが下した禁止令だとか。
しかし理由を探すなんてことは、所詮人間には無理な話で、アッラーが仰ることなので黙って聞いておけ。というのがほとんどのムスリムの考えていること。非ムスリムには、全く持って理解できない世界なんだと思います。まして日本は豚汁、豚の角煮、豚のしょうが焼き、なんて日常ですしね。私は今でも親ともめています。
ただ、知ってもらいたいのは、豚肉以外食べるものがない、という生命の危機に瀕する場合は、この範囲ではないということ。例えば、命を脅かされて食べさせられたとか(あるのだろうか?)。また、豚と知らずに食べてしまったときも、罰せられません。とにかく可能な限り豚肉を避けよという教えです。
実際問題、調味料に入った豚の油脂、なんていうのも駄目なんですが、カップラーメンなんかも、麺の揚げ油に油脂を使ってたりして、それを記載しないんですね。そういうのは、敬虔なムスリムは問い合わせしたりするんですが、それをやってのけるのは結構しんどく、食事恐怖症に陥いったこともありました。
ハラール(一切禁止されているものを使わないイスラム食)ものが簡単に入るところならいいのですが、そうではないと、大変です。だから、一部のムスリムでは、記載されてなく、常識で豚が入っていないと想像できるもの、またはアッラーの名の下で殺されてはいないが、とりあえず豚肉ではない鳥、牛肉を食べる人もいます。
しかし、出来るだけハラールのものを食べることを念頭に置き、あくまでそれが難しい所、又は新鮮なハラールものが手に入らない所に住んでいる人の話でしょう。
中には、魚介類は例外なしに認められているので、心配な人は魚介類で食べていけるし、菜食主義となることも可能だと言う人もいますが、ハラールものの手に入りにくいところに居る私は、臨機応変に考えて、とにかく豚肉そのもの、豚が記載されているものは避け、それ以外はよしとしています。これは、人それぞれ規定を作ってしまいやすい項目なんですが、とりあえず、共通傾向として、豚肉をドンと置かれて、素直に食べるムスリムはいないでしょう。
お酒はどうして飲めないの?
こんな話を聞いたことがあります。
酒と、年頃の女と少女が居て、一人の男が選択を迫られるのです。取しごろの女と性交をもつか、少女を殺すか、酒を飲むか、どっちを取るか?と。
男はもちろん性交も殺人も大罪ですと、酒を飲む。すると酒を飲んで酔っ払った男は、女と性交を果たし、少女も殺してしまった。
ハディースにも、酔って人のらくだを殺してしまう男の話があります。
酒は人を酔わせて正しい判断をつけれなくなるので、禁止され、まして一日5回の礼拝をこなすムスリムたちには、酔って礼拝をすることは大変な罪であり、無効にもなる、という理由で、飲酒は禁止されています。
しかし、お酒を飲むムスリムもいます。彼らの認識では、酔いつぶれなければいい、というものがあるのですが、知らないうちにその判断がつけられなくなる程酔ってしまう、という恐れがないのか疑問です。
お酒は飲むと楽しい。会話も弾むし、晩酌が社交辞令の一環となっている日本では、ジュースなんかを頼むと付き合いが悪いと影で言われる。私も場を盛り下げないためとか、交流を深めようと酒に手を出す時があります。もちろん罪の意識に苦しみます。ここに言い訳は通用しないですね。
どうしても人の目が気になる人は、イスラムだから飲めないといわずに、酒に弱くて飲めないとか、体が受け付けない、とかいう理由をつけると、さして酒を薦める訳にもいかないらしく、切り抜けることができます。
ただ、家族が酒好き、昔よく飲んだ(私)という人には、自分との葛藤、家族問題です。正月なんかは家族ともめました。なんでお前は飲まないんだ、イスラムなんかやめちまえって。
うーん、そうもいかないんだよ、お父さん(苦笑)。くすん。
どうしてスカーフをかぶるの?
それから女の信仰者にも言っておやり、慎み深く目を下げ、陰部は大事に守っておき、外部に出ているものは仕方がないが、そのほかの美しいところは人に見せぬよう。
胸には覆いをかぶせよ。自分の夫、親、舅、自分の息子、夫の息子、自分の兄弟、兄弟の息子、姉妹の息子、自分の(身の回りの)女たち、自分の右手に掛かるもの(奴隷)、性欲を持たぬ供廻りの男、女の恥部と言うものについてまだわけのわからぬ幼児、以上のものには決して自分の身の飾り(体そのものもいうまでもない)を見せぬよう。
うっかり地団太踏んで隠していた飾り(カチャカチャと足飾りを鳴らすこと)を気づかせぬよう。信仰者よ、アッラーに帰依せよ。物事は全ていい方向へ向くのだから。・・・25章光り31節より
外部に出ているもの=顔と手、という解釈で、スカーフで髪の毛を覆い、服装は夏でも長袖、下は生足を見せない長さのもの(ロングパンツ、ロングスカート)。が一般の服装です。
これ、預言者よ。お前の妻にも、娘にも、また一般信徒の女たちにも(人前に出るときは)必ず長衣で(頭から足まで)すっぽり体を包み込んでいくように申しつけよ。こうすれば、誰だかすぐわかって、害されることもない。まことにアッラーは気の優しい、慈悲深いお方。・・・33章部族同盟59節より。
ここでも分かる様に、この服装は女を守るため。という目的があり、体のラインを見せない、性欲を沸きたてさせないという目的なんですね。タンクトップにミニというのが普通の国では、もちろん性犯罪も多いわけで、理にかなった教えだとは思うのですが、実践するということは、大変な覚悟が要求されます。
まず、一度決断してスカーフをつけると、もうやーめた、とはずしてしまうことは大変恥ずかしいことでもあるので、最期までやり通す気迫が必要です。また、スカーフをつけると、イスラム教国では尊敬のまなざしを受けられますが、日本や他国では反応は様々です。最近起こったフランスの法律でも同じことが言えますね。
一般的にスカーフの使用は任意であり、ムスリマにだからしなければいけない、というものではありませんが、一度決断すると変更はきかない、ということで、躊躇する人は沢山居ます。
だから、スカーフをつけているムスリマは、大きな決断の上でしているものであり、それは彼女たちの心を表しているものです。差別であるという人もいますが、ナンセンスです。スカーフは、ムスリマとしての誇りであります。中東で見られる長衣も、彼女たちにはムスリマの証であり、そして慎み深い女としての象徴なのだと私は認識しています。
イスラーム教とキリスト教、ユダヤ教、他宗教の関係はどう?
イスラーム教は「最後の預言者であるムハンマド」ということから、一神教の最後の教えなんですね。私たちはユダヤ教のモーゼ、キリスト教のイエスをムハンマドと同じ系列の預言者であると信じることから、神アッラーはユダヤ、キリスト教と共通の神であるということになります。
もちろんどの宗教信者も、自分の宗教が一番だという意識があるので、新しい預言者が現れるたびに迫害を受けます。いい例がイエスの磔拷問。イエスを裏切ったものはユダヤ教徒であり、イエスを似非預言者として拷問した事件。
イスラム教では、多神教徒によるムハンマドの暗殺未遂から始まり、キリスト教による十字軍、エルサレムの今日も続くユダヤ教徒との紛争、現在のテロリスト=イスラームという安易な差別など。
イスラームと他の教えの違いというのは、まず偶像崇拝をしないということです。キリスト教はイエスやマリアの銅像を教会内に置いたり、イエスを神の子としていますが、ムハンマドは人間であります。そして、ムハンマドの肖像画や銅像は存在しませんし、存在自体禁止されています。
アッラーは、ユダヤ教とキリスト教が、自分の下ろした教えから遠ざかったという理由で、イスラームを最後の警告として下ろしたといいます。個人的に、これを「イスラームは最後の啓典だから最高である」という意味に取ってしまってはいけないと思うんですね。
これは、人間誰にでもある優越感であり、自分は特別であるといううぬぼれで、違う宗教にあれやこれやいちゃもんをつけたり、迫害につながります。あなたにはあなたの宗教があり、私には私の宗教がある、というシンプルな気持ちでいなければならない、と思います。
しかし、宗教は文化とつながり、政治とつながり、社会につながってしまう訳で、そう簡単にあなたはあなた、私は私なんて線がひける訳ではありません。そこでいつも思うのは、臨機応変であるということ。石頭のように宗教に縛られることは、ある意味大変危険だと思うのです。現にパレスチナ問題のように、一度石頭同士が衝突すると終わりがない。
命や生活を危険にさらしてイスラームを通すことはイスラームの意味ではないと思うのです。それよりも、社会と向き合って、相手を尊重しつつイスラームも守る姿勢を身に付けることが、平安を守ることであり、イスラームを守ることでもあると考えています。
| Copyright (C) 2003 Rie Sasaki. All Rights Reserved.